神楽坂6丁目周辺にある坂道


 地蔵坂(牛込天神町)

『砂子の残月』に「地蔵坂 酒井修理太夫下屋敷脇 天神町へ下る坂也」とある。坂名の由来については不明であるが、おそらく近辺にあった地蔵尊にかかわりがあるものと思われる。

 渡邊坂

江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年(一六六七)に市谷鷹匠町の屋敷と引換えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。

 弁天坂

坂名は坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。坂上近くの横寺町四十七番地には尾崎紅葉が明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花、小栗風葉らが玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、誌星堂または紅葉塾と称した。

 袖摺坂
袖摺坂
袖摺坂

狭い坂道でお互いに袖を摺り合わせるほどだったという。そんなことから、誰いうとなく袖摺坂というようになったという。

 赤城坂

赤城神社のそばにあるのでこの名がある。「新撰東京名所図会」によれば「…峻悪にして車通るべからず…」とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。

 朝日坂

左右にお寺が多い朝日坂。町名は横寺町。

 相生坂

続江戸砂子」によると、「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また「新撰江戸誌」では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。

 瓢箪坂

坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂とよばれるようになったという。

 比丘尼坂
 朧の坂
 芥坂
 御殿坂

三代将軍家光の頃、世子家綱の御殿があったことから、御殿坂とよばれるようになった。

神楽坂周辺にある上記以外の坂道

上記の坂道以外にも神楽坂周辺には坂道がいっぱい!

「神楽坂」「御殿坂」「三年坂」「軽子坂」「ゆ嶺坂」「逢坂」「新坂」「地蔵坂(袋町)(別名梟坂)」など色々ありますので、散策してみてはいかがですか。